ペンギン堂の飯島です。意見は私個人のものです。
春の足音は確実に、僕らを包んでいますが、それでも寒い日もあって、体調管理はきつい日もあります。
さて、食べすぎに注意が必要なことは分かっているのですが、そうはいかないこともまた、繰り返される事実です。
読んで、腹は膨れないけど、読むことでしか味わえない味を楽しむことは、健康的にも一石二鳥のような気がします。
そこで、この一冊、
二人の作家が、代わりばんこに「dancyu」という雑誌に、それぞれ、「食」にまつわる表現のある本を取り上げて書いた連載で、これには、いくつかの興味深いの視点があります。
それはまず、自分が知っている作家の誰が、誰を取り上げて、そこでは、どんな食べ物や飲み物が取り上げられているのか、そして、自分の知らなかった切り口が示されているのか?
もう一つは、二人の作家が、自分の知らない作家を取り上げて、どんなことを語ろうとしたのか、ということです。
読むことは食べること
ところで、食にまつわる文章を読むということは、どういう行為なのか。
角田「改めて思うのは、読むという行為は「体験」なんだな、と。物語の主人公と一緒になって、店の引き戸なりドアなりを開けて、中に入って、ご飯を食べる。それは読むということを超えて、体験として覚えているんです。」
だから、食べたこともない食べ物の味を知っていて、本物を初めて食べたときに、「違う、この味じゃない」と感じたといいます。
一方、堀江さんは、
堀江「物語として文字として書かれている食べ物は、やはり文字としてしか味わえない。世の中に素晴らしい料理の本はたくさんあって、そこには写真もそえられていて、おいしそうだな、器も素敵だな、と思ったりはするんですが、味に関しては、そうした本にあるレシピで実際につくったものよりも、小説の中で味わう料理のほうが、きっとおいしい。本の中にしかない味がある」、と。
知らない本や文章を知るということでは、僕の場合、吉田健一『金沢・酒宴』を取り上げた角田文代の次のくだり。
「私は日本酒に詳しくはないが、読んでいるとやっぱりあの、澄んだ酒が飲みたくなる。」ということで、飲んでしまえばそれまでですが、「『酒宴』という作品がある。
この作品で書かれている、菊正はこう、初孫はこう、爛漫は、千福は、勇駒は、と次々なされる酒の描写があまりにもみごとで、文字を目で追うだけで酔ったかのような気持ちになる」のだそうで、酒を飲んじゃいけない僕は、この文章をきっと読むでしょう。
「たい焼き」のたいは、ひらがな
子どものころ、親父の土産は「たい焼き」でした。それを、僕は「きんととまんじゅう」と呼んでいた。甘いものの記憶は、そこから始まっていると思います。
さて、すごく奇特な人がいて、「東京中のたい焼きを全部食べよう」と決意して、淡々としてそれを続け、実に3000匹ものたい焼きを食べたのが、この本の著者です。
著者は、自家用車を使わずに、電車を乗り継ぎ、あとは歩いて、ひたすらたい焼き屋に向かうのだそうで、それは、たい焼きとその店がある町との関係性がご当地のたい焼きの味だということを知っているからでしょう。
それは、「たい焼きの『餡』が教えてくれる町のところで、漉し餡と粒あんがあるのに、たい焼きにはなぜ漉し餡が少ないのか、を考察したところを読むとよくわかります。
ところで、たい焼きの食べごろはいつなのでしょうか?五回の食べごろがあるというのです。「焼きたて」以外の具体的なタイミングは、本書をお読みいただきた。まことに奥深い実体験と考察が語られています。
そして、ここを読んで、僕の子供のころの体験が、素材の力を知る一番の食べ時だったことを知り、いまさらながらに、親父の愛情もそこはかとなく感じるのでした。
近所の「たい焼き屋」を知るには、この本でしょう。
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