高校の入学式に遅刻したことそして担任のウメキ先生

ペンギン堂の飯島です。意見は私個人のものです。

また暑さがぶり返し、体調管理が大変ですが、何とか乗り切らないとならんのです。

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都立五商の入学式がいつだったかは忘れたけれど、よく晴れた日だったと記憶しています。

昭和38年の4月、僕は父と一緒に五商の入学式に向かいました。

中野駅から省線電車の色の電車に二人で飛び乗りました。なにしろ、国立駅までは遠く時間の掌握がうまくできていなかったので、時間がどう考えてもぎりぎりだったからです。

慌てて飛び込んでやれやれと思ったのですが、ドアが閉まって走り出した方向は立川方面とは逆の新宿方面でした。なんと慌てていたので、逆方面の電車に乗ってしまったのでした。

そんなこんなで、国立駅に着いた時には時間はぎりぎり、学校までは15分はかかったと思います。既に校庭には、新入生が整列していました。

何とか自分のクラスに潜り込んだのですが、父親がどうしたのかは知りませんでした。

教室に入ってホームルームがあり、入学早々遅刻した私が、何と学級委員に担任のウメキ先生、この人は国語の先生でしたが東北訛りの強く残っている白髪の男性で、でも、とても良い先生で、ずいぶん迷惑をかけたのですが、その度、お世話になったのでした。好きな先生の一人ですね。

例えば、谷保天神梨園へのエスケープ事件の時など、よく退学にならずにことが治まったと、今から思うとウメキ先生のおかげだったのだと未だから理解できるのです。

しかし、当時の私や同級生の仲間達、三中時代と同じような感性の人々だったのですが、は、脳天気に高校生活を満喫していたのでした。

五商は男女共学でしたが圧倒的に女子生徒が多く、大変のこともあったのです。多くは三多摩方面からの通学で、ほとんど行ったことも見たこともない町の出身だったのです。

23区から通っているのは、杉並区天沼からサトウことガマと新宿区からツノくん、彼は眼が大きく冬になるといつも涙目で通学していました。そして私が中野区、イノウエことガラ、痩せていたので、が、世田谷区くらいでした。

それはさておき、様々な事件が起きた高校時代でした。